本四架橋の一つ、尾道・今治ルートの風光明媚な瀬戸内海に浮かぶ小島、生口島。尾道寄りに因島、愛媛県よりの大三島にはさまれた芸予諸島の一つ。この辺りは平安時代より海路の重要な所として盛え、篤い信仰に守られ数多くの神社仏閣が造営されており、早くより拓けていた。
 向上寺は応永七(1400年)、地頭・生口守平公が瀬戸田潮音山の観音の霊場に一寺を建立し、臨済宗仏通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和尚(1323〜1409年)を迎えて開く。
 聖観世音菩薩(秘仏)を本尊とし、古来、災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺として崇敬されてきた。
 この向上寺一帯は潮音山公園となり、緑に映えて国宝の朱塗の三重塔がひときわ異彩を放つ。特に海からの眺めは、紺碧の空と海、松の翠に塔の朱が幅の絵を創る。境内周辺には巨岩が並び、多彩な顔ぶれの先人たちの句が刻まれており「文学のこみち」となる。
 梵鐘の音色は、除夜の鐘として全国に放送される。
 生口島が小早川氏の勢力図に入ったのは南北朝初期であり、小早川宣平の末子惟平がこの島を譲与され、幕府からもその地頭職を安堵され小早川生口氏の祖となった。応永四(一三九七)年小早川春平は愚中周及を迎えて佛通寺を建てるが、佛通寺愚中周及の『大通禅師年譜』応永十(一四〇三)年の条によると、佛通寺に参集する行脚僧が多数に及んだので、この年、百人余りを収容する向上庵をこの地に建てた。向上寺はその傍らに建てた小堂に始まるという。一方、『芸藩通雑』には「初めは足利家祈願所なりしが愚中この地唐土の径山に肖たりとて、更に諸堂を営み、其景を写せしといふ」、「観音堂後拝の板に狩野元信所図の四天王の象あり」とも記す。
 現在の三重塔は永享四(一四三二)年に信元、信昌の発願で造建された。当時の佛通寺は愚中派独立の意気が上がっており、当寺も佛通寺にならって住持の輪番制を定め、向上寺条々規式を作成した。伽藍は明治六年に焼失、本堂は三原近在の寺院解体による古材で再建したが、その後老朽破損、解体したが、早期の伽藍復興を目指している。