大聖院は、真言宗御室派の大本山で、関西屈指の名刹であり、遠く鳥羽天皇勅願道場以来、近く明治十八年大帝御行在まで歴代皇室との因縁深く、明治維新までは十ニ坊の末寺を有し、厳島神社の別当寺として祭祀を行っていた厳島の総本坊です。仁和寺と当院は本山と末寺という結びつき以前に脇門跡、仁和寺院室、厳島御室などの称号を賜った深い関係があります。仁和寺第二十世任助法親王(厳島御室)は法流流布のため当院に御止往されましたが、仁和寺塔頭に大聖院があったため、特に当院を法流相伝の御室に充てられたものと思われます。
 
また、当院の本堂は鳥羽天皇の勅願道場であり、仁和寺第五世覚性法親王は鳥羽天皇の第五皇子です。
 治承四年三月の高倉上皇の御社参について記した土御門内大臣源通親公の「高倉院厳島御幸記」には厳島神社の別当寺といわれる所以が示されています。

 現在、厳島神社の恒例行事である玉取延年祭(旧暦七月十八日)や、大晦日の鎮火祭は当院から始まったもので、神仏習合の密接な関係が伺われます。

 

 
 大聖院は、弘法大師が霊峰弥山において求聞持法を修された霊跡であり、道俗信仰の霊場として世に知られている。
 当院は真言宗御室派仁和寺の末寺。本山・仁和寺が有していた四十九の塔頭の中に大聖院の名が見られ、院家として寺名を賜ったと思われる。皇室との縁が深く、しばしば庇護を受けた、また仁和寺第二十世門跡の厳島御室(伏見宮貞敦親王第四御子)は天正年間、数年に渡って当院に住した後、この地で薨去され、対岸御室山には御陵墓がある。
 本尊波切不動明王は豊臣秀吉公の御神仏で軍船宝丸に安置し、海上の安全と戦勝を祈願した尊像である。
 秀吉は天正十五年三月十八日に厳島神社に参拝、毎月一度の千部経読誦を発願し、大経堂の建立を安国寺恵瓊に命じたが、慶長三年に死去したため未完成のまま今日に及んでいる。畳が千枚しかれるので千畳閣とも呼ばれている。
 秀吉は護身仏の祀られている当院の庭を好み天正十八年八月二十五日には盛大な歌会を催し、
「ききしより ながめにあかね いつくしま 見せばやと思う 雲のうえびと(松)」と読んでいる。