漢陽寺は中国自動車道・鹿野インターチェンジから直ぐの所に位置する。寺裏山の潮音洞より流れ出る遺り水を活かし、古庭園を模して築庭された閑雅な雰囲気『曲水の庭』に代表される様々なタイプの庭園(蓬莱山池庭、九山八海の庭、地蔵遊化の庭など)と、精進料理が好評を得て名を馳せ、今では訪れる人も多く、マスコミに紹介されることも再々の有名寺である。
 漢陽寺開山の用堂明機禅師は、当時名僧の誉れ高く、応安七年(1374)大内氏二十六代当主・盛見が禅師を招いて開山した。用堂明機禅師は唐に渡り、杭州の竺源遠禅師について十一年余の長きにわたって学び仏道を究めた。帰国後、中国地方一帯の権力者・大内弘世の篤い帰依を得る。弘世公亡き後、弘世の四男・盛見が父の遺志を継ぎ、伽藍を創建し禅師を招いて開山、大内家の祈願寺をした。
 御本尊の聖観世音菩薩は、開山禅師の護持仏で、秘話を持っている。
 漢陽寺は南禅寺派の別格地である。漢陽寺開山当時の臨済宗は、室町幕府が鎌倉と京都にそれぞれ五山十刹の制度を設けており、京都五山は貴族が疵護していた。五山はいずれもその下に十刹と呼ばれる寺院をもち、住職は代々、幕府の命によって任じられた。南禅寺は、その五山の上に位置し別格の扱いを受けていた。漢陽寺がその南禅寺派の別格地であったのも、名僧といわれた用堂明機禅師の御徳と高名によるところと思われる。
 山号の鹿苑山は、釈尊が十二年にわたり蔵経を説いた鹿野苑に因むもので、説法を施す華厳の禅堂であったことがうかがえる。
 漢陽寺の御本尊・聖観世音菩薩は、当時開山の用堂明機禅師の護持仏である。
 開山禅師は建武二(1335年)に入唐した。十一年余の厳しい修行ののち、貞和二(1346年)に帰朝した。帰朝の際に風破の難に遭い、今にも船が難破しそうなことになり、そのとき、入唐の際に母より形見としてもらった八葉の鏡と栢の実を空高く投げ、観音さまに、この鏡の落ちた地に寺を建て観音さまをお祀りしますからと、御立願をされたのである。観音さまの妙智力により皆と共に無事に帰朝し、巡錫中に当地より宝鏡が出土したので寺を大内弘世公が建て、禅師がその開祖となり、観音さまを安置して護持したという話を寺縁起は伝えている。