山口は中世に文化の粋を集め“西の京”と謳われた。百済国聖明王の第三王子琳聖太子の末裔と伝えられる、中国地方の豪族で守護職・大内氏24代弘世が南北朝時代(1360頃)山口に館を移した。歴代当主文武兼備の名将が続き、約二百年間西国の雄として君臨する。特に応仁の乱中乱後は、戦乱で疲弊した京を避けて多くの公卿文化が大内氏を頼って来山、京を凌ぐほどの文化が開花。龍蔵寺はこの大内文化の栄えた頃に最も殷盛する。大内弘世が西国霊場を模して興した「周防国観音霊場」の結願寺となっていることからもそれが窺うことができる。
龍蔵寺の創建は、奈良時代の文武二年(698)神変大菩薩と崇められていた僧・役ノ行者小角が豊後の彦山から飛来し、岩窟に熊野大権現を勧請して秘法の護摩供を厳修したと寺縁起は伝える。その後、天平十三年(741)行基菩薩がこの霊窟に留錫し、草庵を結び自ら千手観音を謹刻し『龍蔵寺』と称したという。この千手観音、一説に琳聖太子が百済より請来したものを、大内氏30代義興が寄進した俗に言う大唐仏とも伝える。他に合祀仏も多く、いずれも鎌倉期の秀作であり大内文化の栄華の光芒を見る。また本堂本尊の大日如来坐像は、吉敷領主であった頃の佐々木四朗高綱が自ら刻したとも伝える。観音堂の本尊は馬頭観音で、牛馬の観音として古来より名高く、堂内には伝画聖雪舟筆の絵馬額があり、それにまつわる伝説もある。また雪舟派四世雲谷等顔筆と伝える33頭の大絵馬もあり、屈指の絵馬寺でもある。滝壷に落ちる水音から鼓の滝と名付けられた三段の滝、その飛雫が植令千年という大銀杏を育くむ。その大樹の年輪が寺史を如実に物語る名刹である。
どんなに可愛い、また小さな子どもでも、その子に与えられたものはある。その子に責任をとってもらい、その子が背負わなければならないものがある。例え親でも大人でも、その事で代わる事は出来ないのである。「老い、病み、死する」の問題は、その人自身に与えられた天からの贈り物、誰も代わる事の出来ないもの、また、逃げる事も出来ないもの。それを目前に据えて、見つめて、自分が対応し、自分が受け止めて、自分の心を変えて、自分が変わっていくしかない。享受するしかないのだ。
例えどんなに、乾布摩擦して、風邪ひとつ引かない人間でも大病になる。交通事故も起こる。そこに神仏の大儀があり、仏教の教えがある。