宝亀八年(777年)唐より来朝した為光(威光)和尚が、故国に似たその景観を愛すると共に、山ふところの湧泉に霊感をうけて一寺を開き、松江山普斉寺と名付けたのが創まりと寺伝はつたえた。
 松江とは太湖(南湖とも呼ぶ)の支流にある湖のことであり、古来中国の人たちは観音菩薩の聖地として崇め信仰していた。観音菩薩の住地を南方の補陀洛山としたところから、南湖もまた南にある故に観音聖地と見たてたものであろう。
 その後、戦国時代末期には寺は廃絶の憂目にあうが、徳川四代将軍家綱時代の寛文十年(1670)、長州藩永代家老で宇部領主であった福原氏十五代広俊公が寺の再興をはかり菩提所とし、亡父元俊公・宝嶺宗隣居士の法号にちなみ宗隣寺を建立。
 元文年間(1736〜40)境内の整備工事のとき発見された朝鮮鐘は現在、国重文として大阪の鶴満寺に寺宝として保存されている。
 宗隣寺庭園(龍心庭)は深淵な禅の真髄を説くという閑寂な趣きで、国の名勝庭園に指定されている。
 元文年間(1736)境内の整備を行ったとき朝鮮鐘が発見された。その追銘に「長門州厚狭郡宇部郷松江山普済禅寺永和五(1379)年己未仲呂日」と刻まれてあり、寺院の歴史を記す唯一の物であるが、その鐘は現在、国の重要文化財に指定され、大阪の鶴満寺に寺宝として保存されている。その経緯はつまびらかでなく残念なことを言わざるを得ないが、当時の寺の隆盛は偲ぶことができる。永和四年は足利義満が室町幕府を確立した年で、守護大名が大いに成長した時代で、普済寺も、周防灘に面した山陽道の要衝に居を構えた、長門守護職の厚東氏の庇護があった事が容易に想像できる。