元応二年虚庵玄寂禪師開創で金山長福寺と号した。
足利尊氏、足利直冬、長門守護厚東氏、大内氏等の帰依を受け隆盛を誇った。弘治三年大内義長が毛利元就に敗れ仏殿で自刃をした大内氏終焉の地であり、その後の戦乱で寺も荒廃し中世に誇った大内文化も衰退する。慶長七年毛利秀元が修復、寺門を興隆し、慶安三年功山寺と改称する。元治元年三条実美等七卿が潜居中に高杉晋作が門前で義兵の旗挙げをした維新発祥の地でもある。門前通りから入る総門は創建当初の建築で老朽化し、掲額の“海右第一峰”右側の“不許葷酒入山門”の石牌に古刹感が漂う。因に海右の右は山号の金山の金と共に西を意味し西方第一の禪刹の呼称か。更に老楠・楓等の聳える参道に続く雄大な二層の山門は参拝客を圧倒する。又山門の柱間より見る国宝仏殿は幽玄な額入りの絵のように幻想的であるが、境内では檜皮葺の重厚な建物となる。隣の法堂から奥に書院七卿の間がある。広い境内の一隅に建つ維新の風雲児高杉晋作の騎馬像は私達に何を訴えているのだろうか。
 鎌倉から一人の若武者が長門探題として長門国府のある長府に赴任した。名前は北条時仲、名門北条氏の一人である。駿河湾を前景に巨福呂の谷間一帯を庭園に執権北条時頼が建立した建長寺で幼い頃よく遊んだ環境に酷似した長府谷の景観に大変な感銘を受け、彼は一寺の建立を発願した。元応二年に柱立、七年の歳月を経て嘉暦二年に諸堂宇を完成する。開山は虚庵玄寂禅師で金山長福寺と言う。
 建武八年足利尊氏、観応二年足利直冬から寺領を賜り寺運隆盛を極めたが、弘治三年大内家没落の時は寺内が戦場となり大内氏終焉の地となる。その後の戦乱で衰退著しく又中世における中国路の大内文化も終わりを告げる。
 慶長七年毛利秀元が寺門を興隆し洞雲三庭禅師を開山とし功山寺と改称する。爾来星霜を重ねて文久二年以後は防長国難の際に諸隊の陣営、山口流寓の五卿の潜居の假館となりその間元治元年十二月十五日高杉晋作が回天の義兵を挙げ、明治維新の黎明を告げる警鐘となった。公卿政治より幕政、幕政より王政復古へと歴史の節目に当山は二度登場する。