下克上による大内氏の悲劇の滅亡(1551)は戦国時代の真只中。大内氏の後を継いだ毛利元就は中国地方一帯十ヶ国を制した。元就嫡男輝元の頃は禄高百二十一万石、豊臣五家老の一人であった。しかし、関ヶ原の戦(1600)に敗れ、居城を広島から外寇防禦の名目で辺境であった萩に、領国も周防・長門の防長ニ州、禄高三十六万九千石に滅封、更に責任を問われて輝元は隠居、その子秀就が僅か六才で家督を継ぎ、萩毛利藩初代藩公となった。慶長九年(1604)4ヶ年の工期の後、萩指月城を築城、以後萩は明治維新前までの約二百六十年間、十三代の藩主を数えることとなる。城下町萩として、今や日本有数の観光地の一つとして数えられている。
 大照院の縁起は次の様に伝える。延略年間(782〜805)の草創といわれる月輪山観音寺を、建武の中興(1344)の頃、鎌倉五山の第一刹・建長寺四世義翁伝等大和尚が来訪、大椿山歓喜寺と改めて臨済宗を伝えるが、戦乱の世に荒廃して行った。
 萩毛利初代秀就は57才で逝去。祖父元就は山口洞春寺、父輝元は萩天樹院を菩提寺とするが、二代綱広が歓喜寺を改築、秀就の法号に因んで霊椿山大照院と改称して菩提寺とし、二代以後偶数代を大照院に、奇数代を東光寺と交互に葬られることになる。大照院には7世代の藩公夫妻が、家臣寄進の六〇三基の石灯籠群に護られるが如く静かに眠る。
 毎年八月十三日夜の万灯会には、この灯籠に灯される炎で幽玄幻の世界となる。
 大照院境内は、白壁の映える鐘楼門から先に本堂が鎮まり、右に土塀を築いて庫裡が見える。いずれも壮大な構えである。本堂横の経蔵前の石橋を渡ると小門がある。ここからが廟所である。石畳を敷いた参道が造られ、その左右には重臣たちや、ゆかりの深い人々の献上した六百三基の石灯籠群が整然と林立し壮観。秀就の墓前の両側に殉死者八名の墓もある。殉死墓は山口県内にあっては、他に天樹院跡の毛利輝元墓所に一基あるだけである。
 大照院毛利家墓所は、藩政時代の大名家の葬制や墓制を知ることのできる史跡であると同時に、墓は明治以後に移されたものや一部新墓を除いて、藩主夫妻、一族、殉死者と共に五輪塔形とし、墓に付属する玉垣・鳥居・石灯籠・参道の石畳なども、それぞれに規格が統一してあって総合的な石造文化財である。これ等が広大な敷地に、周囲の大樹山林を背景として並んでいる景観は、荘厳幽邃の境で感嘆に堪えない。