観音院は古くより“玉江観音”と呼ばれ、海の護り観音として崇められていた。また、大道無門に境内を開放していたので、幕末には志士たちが会合所として頻繁に利用、激論を交わしていたという。
萩は三方を山に囲まれた盆地で、阿武川下流が岐れて松本川・橋本川となり、その三角洲に、毛利輝元が四年の歳月をかけて1604年に完成させた典型的な城下町である。維新前夜までの二百六十年間毛利三十六万石の拠点であった。萩が辺境僻地であったために、幕末に藩庁を山口に移した後も、維新以後の大きな社会変革からも影響を受けることなく、城下町往時の面影遺構をそのままよく残している。
観音院は、民家の密集する橋本川河口の急な傾斜の高台に、それも城砦を思わせる石垣上に、ひときわ聳えて佇み、その伽藍を川の水面に映す。眼下に広い河口から日本海の大海原を望み、さらに指月山萩城趾を正面に凝視する絶景の地に建つ。四季折々に人の訪れも多く、特に春の桜、秋の観月は特筆すべき素晴らしさである。
観音院は一般には玉江観音と呼ばれて親しまれ、海上安全・水難防止観音と崇められている。その縁起は、大同二(809)年不見別当が草庵を結び、普く法灯を弘通していたが、乱世に次第に衰微して僅かに小堂を残していた。
永禄元(1558)年一伝得公和尚が芸州吉田の毛利元就公の菩提寺である洞春寺の役僧寺として開山、本院の構えを成した。しかし、元就嫡男の輝元が関ヶ原の合戦で敗れ、徳川家康に防長二州に封じ込まれ、居城を萩に命じられたとき、本寺の洞春寺に従いて役僧寺である観音院も萩に移り、慶長十四年(1609)現在地に伽藍を移築した。不運にも二度にわたる集落の火災に類焼したが、峨山和尚の代の嘉永六(1852)年に毛利藩の庇護を受けて諸堂を再建。観音堂は当時の建物である。
本尊の聖観音像は、もと大内義隆の念持寺であったが、陶晴賢に追われ九州に敗走するとき、海上の安全を祈り海中に沈めた霊像を、後に漁夫の網にかかったのを、義隆自刃の長門、大寧寺に安置したが、端麗な尊像に魅せられた輝元が萩指月城構築に際し、川を隔てた高台の当観音院に奉祀、築城の無事完成と家運長久を祈願した。また、多くの藩士たちも城中お守り観音と敬い、篤く信仰したという。