奇岩と白砂が交互に繰り返し広がる山陰海岸・石見路、その中核の街が「浜田」であり、中世には大陸貿易の主要港として栄えた街である。その浜田、否、石見路を代表する屈指の古刹が多陀寺である。寺は県立自然公園の浜田海岸や天然記念物の石見畳ヶ浦の絶景が一望できる小高い山上に位置する。
多陀寺開山の流世上人は空海と相弟子で、共に唐に留学僧として渡り、恵果阿闍梨より密法の直伝を受け、空海より二年早く帰国(806年)、諸国を遊歴しながらの上洛の途次、この地での奇瑞を感得し、唐より持帰った金色観音像を安置したのが始まりと、縁起を伝える。
山陰海岸の落日風景は、えも言われぬ美しさ、荘厳さは定評があり、仏教信者には将に、夕陽の沈む大海原に西方浄土の光芒を見る想いであったろう。
参道は急な石段からと、山腹を迂回した自動車道がある。仁王門の傍には天然記念物の大楠が天に聳えるのが印象深い。また、珍しい流木仏六十余体を蔵していることでも広く知られている。
多陀寺開山の流世上人は空海と相弟子で、共に遣唐使船で唐に渡り、恵果阿闍梨より密教の直伝を受けるが、空海より二年早く日本へ帰朝した。
帰国した流世上人は、石州の此の地に、唐より持ち帰った御丈一寸八分の閻浮檀金の観音を本尊として安置し、真言密教の道場とした。三密(身密、口密、意密)の加持祈祷を修して近在の人々を救済した。霊験たいへんあらたかで、観音妙智の光に信仰する人も次第に多くなる。
ある時、魚人が海上より遙かに此の山の桧の稍より不思議な金色の光を見つけた。流世上人はその大樹のもとに仏壇を飾りて祈精すると稍より烏三羽が祭壇の上に飛び降りて来た。流世上人はその烏が権現の使いであると悟り、一心に権現の勧請を祈った。
翌日、遙か遠くの空のかなたより不思議な声が聞こえてきた。「我地蔵菩薩なり。汝が跡を慕い、権現と一緒に此処まで来たが、権現はこの山にとどまるというので、自れはこれより熊野山へ赴く。権現と我とは元々同仏である。」・・・と。
流世は歓喜、其所に社を建立。今はそこに桧の大木があり、諸願成就神として祀られる。