斐伊川堤から三刀屋町に入る道と国道九号線から宍道町より国道五十四号線を三刀屋に向かう何れかの道にしても三刀屋の町を過ぎて約三km入ったところに鍋山の集落があり、そこから出雲市へ出る道路をニkm位入った所に参道入口がある。そして約五〇〇m馬場を登ると山門につく。峻しい山の自然が随所にあり登山は苦しい事もある。しかし、今では車で山門下まで入る事が出来て案ずる事はない。
山寺が創建された深遠な事は、密教思想の根本でもある、苦行修練の精心を説いたもので、苦難の道に菩提心を養う事が信仰の世界といえる。こうした聖地に建立された寺の山号・寺名についても四方の景観により慶びを迎える山であるというところから慶向山と号し、又禅定三昧に適した所であるところから禅定寺と名づけられた由。
庫裏の畳の上から中国山脈の連山を眺める時、数十kmの山並は静かに眠る「おろち」のようで四季にはそれぞれの姿を見せてくれる。雄大にして、繊細なその表情は、自然の豊かさを教えてくれる。
当寺の創建は行基菩薩の開創で天平年間(七二九)禅定三昧に適した聖地であるところから、行基自ら本尊聖観音を安置し脇持に阿弥陀三尊を祀られたのがはじまりで、後に大慈大悲の観音功徳が時の帝、聖武天皇の叡聞に達し祈願円満の勅願寺となり、山中に諸堂伽藍が建ち四十二坊を構える大寺に発展した。しかし中古以来再三の兵火に遭い全山焼失したが、観音様、阿弥陀様は土中に埋めお守りし現在まで御利益をあおいでいる。
こうして度重なる興廃があったが、佐世石見の守より、田・畑・百姓屋敷等多くの寄進があり、引続き領主徳川直政公より代々寄進があり領主の祈願寺として栄えて来た。