鰐淵寺は、浮浪滝を中心とした修験信仰、持統天皇六年(692)に当たる壬辰年在銘の重文・青銅観音菩薩像が示すような観音信仰、ならびに智春上人の滝の行験に期待する薬師信仰の三つから生じた寺で、奈良時代に開創されましたが、平安に入り伝教大師が比叡山に天台宗を開かれますと、第三代天台座主慈覚大師が山陰に足跡を印された折、天台の教義の下に第一番にはせ参じ、天台宗最初の末寺となりました。
 後、出雲大社や比叡山横川三昧院、無動寺との関係を深め、鎌倉時代には、武家との関係を密にし、出雲大社との習合を確立・推進し、別当寺を務めました。又、この頃、南院と北院との存在も伝わります。
 頼源は後醍醐天皇に尽くし、栄芸は毛利元就との親交を深め、本堂再建を輝元の代に完成させました。又、有名な弁慶も当寺で修行し、いまも『弁慶まつり』『弁慶ウォ―ク』として残り、八百屋お七もねむっております。この他、寺との関係のある名僧・武将は数多くその名を残しております。
 推古天皇二(五九四)年信濃国の神僧智春聖人が、西の空に法華の首題が金色に現れたのを慕って、北の浜まで来られたところ、老翁が三人、船で迎えに来られ、旅伏山に入られた。この三人は現在の智尾、白滝、旅伏の三神である。上人はその夜、松樹の下に伏し「こぞのけふ詠めし月はかわらねど、こよひたびふす空にみるかな」と詠ぜられた。
 翌日、上人はカズラを分け、渓をさかのぼられたところ、数十丈の滝があり、その巌窟に威儀堂々とした化人が案座しており「吾れは釋迦佛なり。この山は天竺の霊鷲山(釈迦仏が修行された山)が欠けて浪に浮かんで流れついたもので、汝はこの山に因縁がある。ここに住んで妙法を唱え、大衆を救えよ」と上人に仏勅を下して忽ち消え去られた。
 この頃、推古天皇が眼を悩ませられ、上人がご加持を修されたところ、忽ち巌間より麗水が湧き出たので、献上申し上げたところ、即時に平癒されたので、その報賽として三郷(俗に療眼領という)を寄附し、殿堂、僧院を創立して鎮国勅願の道場とされた。
 ある時、上人が滝のほとりで密法を修しておられた折、誤って仏器を滝壺に落とされ困っておられた時、淵がにわかに激発して、大きな鰐魚が浮かび上がり、仏器を鰓にかけ上人にささげ奉ったという。このことにより寺号が生まれたと衆徒勧進帳に書かれている。