中海に面した安来港は、伯太川の河口が発達し、地場産業の積み出し場所として賑わいました。また西回り航路の寄港地として古くから栄えていましたが、松江藩では東の入口に位置したことからも警備も厳しく、番所、制札場などが設けられていました。
その安来港から伯太川をさかのぼって千代富橋を過ぎ、堤を下ると、左側に臨済宗妙心寺派の名刹・雲樹寺の参道が見えます。拈華微笑仏を本尊とするこの寺は、後醍醐・後村上両朝の勅願寺でした。
松並木の参道に入ると辺りは水田で、中程にある四脚門を通り、石門を抜けると左に広がる境内に、山門、仏殿、方丈、と伽藍が一直線に並んでいます。禅宗様式と呼ばれる構えで、地方寺院には珍しい貴重なものです。大門から先の繁みには「酒だち地蔵」の祠があります。山門のすぐ脇にある観音堂には、親称「子授け観音」が祀られており、諸願成就と共に、古来より多くの信仰を集めています。
方丈の背面の山には枯山水形式の禅宗庭園があり、巡拝者の心を和ませてくれます。
元亨二(1322)年、孤峰覚明禅師が開山。臨済宗妙心寺派の名刹で、後醍醐・後村上両朝の勅願寺であった。
孤峰禅師は南北朝時代の名僧で、応長元(132)年唐に渡り、天台山で学び、帰国後、雲樹寺を創建した。
元弘の役で伯耆に行幸した後醍醐天皇は船上山に師を招いて戒を受け、国済国師の号と「天長雲樹興聖禅寺」の勅願を下賜した。貞和二年、師は妙光寺に移り、更に足利尊氏の招きを断り、南朝への忠誠を示した。のちに後村上天皇より三光国師号を加賜され、勅詔あって和泉高石に大雄寺を建て、隠棲した。二祖国師号をもつ稀代の名僧である。
こうした名僧知識の法を嗣いだ雲樹寺は、次第に寺運も発展し、塔頭二十余院を含む大伽藍となった。
室町期は尼子氏の庇護を得代わって毛利元就も援助したが、両雄の思案は大きく分かれていた。
天文年間から元禄にかけて伽藍の大修理が行われ、参道の松の植栽や枯山水庭園が整備された。文政三年、不慮の天災で堂塔のほとんどを焼失したが、大門と山門、薬師堂、庭園は難を逃れた。