静かにうねる中海から南にわずか2km、海抜五十m余りの小さな山の谷間にたたずむ清水寺は、東には霊峰大山を望み、西には八雲の峰峰が連なる景勝の地、安来節の故郷、安来市に位置する。
 用命天皇二年の開基で、一千四百年の法灯を有する山陰随一の観音霊場である。
 根本堂は推古天皇感得の厄除けの観音様である。
 初詣、厄年のお払い、節分の星祭り、春の還誕祭、夏の御開扉法要、秋の光明真言会、師走の大梵焼祭、そして、毎月十七日の観音様御縁日には朝から香煙のたえ間ない、天台密教の祈願道場である。
 又、境内の奥に高くそびえる三重塔は山陰唯一の多寶塔で、登ることができる塔は全国でも珍しい。更に光明閣の書院庭園、重文の佛像他寺宝を収めた宝蔵と、豊かな自然とよく調和した堂舎は中海圏の観光要所として、参拝者のたえることなし。
 元亨二(1322)年、孤峰覚明禅師が開山。臨済宗妙心寺派の名刹で、後醍醐・後村上両朝の勅願寺であった。
 孤峰禅師は南北朝時代の名僧で、応長元(132)年唐に渡り、天台山で学び、帰国後、雲樹寺を創建した。
 元弘の役で伯耆に行幸した後醍醐天皇は船上山に師を招いて戒を受け、国済国師の号と「天長雲樹興聖禅寺」の勅願を下賜した。貞和二年、師は妙光寺に移り、更に足利尊氏の招きを断り、南朝への忠誠を示した。のちに後村上天皇より三光国師号を加賜され、勅詔あって和泉高石に大雄寺を建て、隠棲した。二祖国師号をもつ稀代の名僧である。
 こうした名僧知識の法を嗣いだ雲樹寺は、次第に寺運も発展し、塔頭二十余院を含む大伽藍となった。
 室町期は尼子氏の庇護を得代わって毛利元就も援助したが、両雄の思案は大きく分かれていた。
 天文年間から元禄にかけて伽藍の大修理が行われ、参道の松の植栽や枯山水庭園が整備された。文政三年、不慮の天災で堂塔のほとんどを焼失したが、大門と山門、薬師堂、庭園は難を逃れた。