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山陰路の要衝として古来より栄えてきた倉吉。標高二〇八米の打吹山頂には打吹城があり、打吹山麓一帯は「城下町の中心であった。長谷寺はこの城に登る途中に在る。城址を含めて山麓一帯は「さくら」「つつじ」が咲き乱れ、現在では「打吹公園」となり山陰随一と言われている。長谷寺は、急な山道を東参道、西参道共三百米程登った所にあり、本堂は舞台造りで千社礼が無数にに貼り付けてある。寂びた御堂の佇いはこれこそ霊場の雰囲気そのものであろう。 長谷寺開山は養老五年(721)元明天皇の勅願による法道上人で、本尊に十一面観音を安置したと寺の縁起は伝える。長谷の寺号は大和初瀬に因んでおり、これは観音霊場の代名詞でもある。当時は寺領三百石、七堂伽藍を構えていたが、時代の変遷に衰微していった。が建久四年(1193)、前年鎌倉幕府を開いた源頼朝の命に依り寺運を再興する。寺梵鐘に明徳四年(1393)の銘がある。その前年に南朝は終焉。この辺りは後醍醐天皇に味方した南朝方、明徳は珍しい北朝の年号。いかにも時代は乱世、倉吉の中世は長谷寺が大きく関わっていたかを物語っている。 弘治三年(1557)南条元次が打吹山に籠って豊臣秀吉と戦った折、堂塔は勿論寺域一帯焦土と化したが、不思議なことに唯一観音堂だけが難を免れた。人々は観音像の霊力に驚き、信仰は一段と深く篤くなったという。 慶長十五年(1610)領主中村伊豆守が霊像のお加護を蒙り、寺の復興を計って伯耆大山寺より俊快阿闍梨を迎え、次いで松平相模守が祈祷所に定めたことで熾盛するが、明治維新に檀那を絶たれて衰退の憂目を見ることになる。 |
| 御本尊/十一面観世音菩薩 開山・創建/法道上人・養老五年 御詠歌/にじむじん ちかいもふかき 長谷寺の あかの清水に 久米の倉よし 代表的寺宝/奉納絵馬郡、文翁公老和尚木像、 仁王像、梵鐘、本尊厨子(国重文) |