法界院の開山は天平年間(729年)報恩大師と寺伝に伝わる。
 報恩大師は修験道の流れを汲む観音呪を修めた行者であり、備前の地に四十八ヶ寺を草創する。中国観音霊場寺院としては餘慶寺と正楽寺が共に七四九年に開創されている。
 法界院御本尊・聖観音は、桧の一木一体の稀有の霊像で、平安初期の貴重な作として国の重要文化財に指定されている。彫は浅く裳の飾りも簡素だが、一部に胡粉が残っているところから極彩色であったことが窺える。聖徳太子御作とも伝えられている。
 境内は勇壮な構えの仁王門から質素な造りのニ天門に至るが、ニ天門の左右に奉安する毘沙門天像と持国天像は、今は本尊脇仏として内陣に祀られているが、本尊に酷似した彫で隠れた文化財である。
 昭和六十三年に御開眼した、京都美術院国宝修理所所長、小野寺久幸大仏師の謹刻された桧の寄せ木造りの昭和の聖観音立像が毎年四月ニ十一日の午前中に一般開扉されている。
備前地方は、恵まれた瀬戸内海気候の風土で、古代から農耕文化が花開き、吉備文化圏が形成された。岡山はその中心であり、水陸交通の面からも戦略的拠点であり、雄藩の一つである池田氏三十一万五千石の城下町として栄えた。
 その藩公が参勤交代の折、東海道白須賀の宿において難儀をみた。その夜観音菩薩が夢枕に立たれ、その霊示に従い急いで宿場を旅立ち危難を逃れたという霊験譚が今に語り伝えられている。
 この頃、法界院住持の伝審和尚は、法界院を中興し、人々から学徳を慕われていた傑僧であった。岡山城主池田公も帰依することとなった。
 伝審和尚が藩公に伽羅木の如意輪観音を献上。公は持仏である金銅一寸八分の如意輪像との二尊を、後楽園内の慈眼堂に祀った。これが縁でその後、法界院の住持が慈眼堂への月参りを許された。
 また、三十三年目ごとに法界院に遷座し、一ヶ月間の御開扉法要を厳修していた。
此の間に限り、一般庶民の参詣がみとめられ、その功徳御利益にあずかろうと、それはたいへんな賑いであったという。