元禄十一(1698)年、加賀の国金沢の名刹大乗寺の住職を退いた高僧徳翁良高和尚を開山として迎え開創された補陀洛山円通庵が寺の起こりである。
 本尊は、行基菩薩作と伝えられる聖観世音菩薩像。
 寺域一帯は岡山県指定の名勝地とした円通寺公園であり、すこぶる景勝の地である。眼前に玉島湾や水島灘が光を堪える眺望は別格の風情である。
 良高和尚も当地を景勝地として称えている。
 安永八(1779)年、二十ニ才の良寛は十世大忍国仙和尚の直弟子となり、正式に出家得度し国仙に随侍して当寺に安居、寛政七(1795)年頃まで修行した。当寺は、大正初年頃より良寛の修行地としての由緒を慕う来訪者が続いている。良寛遺墨として、漢詩、和歌、俳句なども所蔵している。
 当寺が修行の道場として伝統的風格を維持してきた根底に、求道三昧の先哲先聖の尊崇と、仏祖の願海に帰入しようとする信仰一途の檀信徒による寺門護持の篤き願行のあったことは言うまでもない。
白華山には、「星浦観音」と称する行基菩薩作と伝えられる聖観世音菩薩像が祀られ、霊験あらたかな観音霊場として天平の昔から信仰されていた。ところが徳川中期、観音堂は荒廃し、近隣で風雨の災害や疫病が多発するのも「星浦観音のたたり」といわれた。たまたま、加賀の国金沢の名刹大乗寺の住職を退いた高僧徳翁良高和尚が当地の韜光庵に滞留していたので、柏島海徳寺一桂活道、井原永祥寺竿頭円刹、鴨方長川寺独秀サク雄和尚等の協力を得、庄屋の酉山源右衛門をはじめとする村民百十七名は連判状を手に寺社奉行に嘆願して堂宇を再建すると共に、良高和尚を開山として迎え、元禄十一(一六九八)年、補陀洛山円通庵が開創された。良高の類い希なる徳風は備中松山藩主水谷侯の帰依するところとなり、庄屋、村民一同の外護によって漸次諸堂を造営し、良高の定めた西来家訓により禅門の修行道場としての偉容を整えていった。正徳四(一七一四)年、円通寺と改称、宗風の宣揚、寺門興隆に力が注がれた。
元文三年寺号勅額を賜る。
宝暦三年に経蔵、同八年には地蔵菩薩像を建立した。