尾道三山の一つ瑠璃山を背にした備後の名刹・浄土寺は聖徳太子によって創建(推古天皇の二十四年)された真言宗泉涌寺(京都、皇室の御菩提所)派大本山です。本尊は聖徳太子御作とされる秘仏十一面観世音菩薩で、古くから「身代わり観音」として信仰されています。
鎌倉時代末、奈良、西大寺の定証上人が七堂伽藍の堂塔を再興しましたが、二十年後に全焼し、当地の富豪道蓮・道性夫妻により再建されました。
瀬戸内有数の良港・尾道は、古くから交通・経済などの要地であり、浦人たちの信仰が集まっていた当山は、公武両方から重要な拠点として外護されました。建武の中興の際は、後醍醐天皇から因島地頭職寄進の綸旨を賜り、一方足利尊氏公も参籠し祈祷をしました。以後、足利家の家紋・二つ引き両を寺の定紋としています。室町時代には蓮如上人も参籠され、江戸時代以降は港町尾道の繁栄と共に寺門興隆し現在に至っています。殊に日本三名塔の一つで国宝の多宝塔をはじめとする文化財の宝庫としても知られ、千三百有余年を継承しています。
浄土寺は推古天皇の二十四(六一六)年聖徳太子の開基と伝えられている。平安時代末には高野山と深い縁を結んだ。鎌倉末期、奈良西大寺の定証上人が西国教化の折に立ち寄り、尾道浦の大檀那光阿弥陀仏の援助を受け、七堂伽藍の堂塔を再興した。二十年後の正中二(一三二五)年に焼失の不運に見舞われたが、翌年に当地の富豪、道蓮・道性夫妻により再建した。
備南の良港・尾道は、中古以来、交通・経済・軍事各方面の要地であり、この地の人々の信仰が浄土寺に集まっていたため、公家・武家方共にあらゆる術策で当山を味方につけようとした。建武の中興の際は、後醍醐天皇から因島地頭職寄進の綸旨を賜り、一方足利利尊氏公も御宝前に参籠し観音経一万巻読誦による武運長久の祈祷をした。さらに尊氏公は戦死者を弔うため全国に一寺(安国寺)一塔(利生塔)を建立、備後の利生塔は当山に建てられた。室町時代には蓮如上人も参籠し、江戸時代に入ると尾道の豪商たちの外護を受け、元禄の方丈の改築、文化の露滴庵移築が象徴するように民衆の信仰中心の寺院となって現在に至る。