さて巡拝巡拝といっても、先ずあなた自身が発心して,その気にならなければ何もならない
ということである。個人や気の合った仲間同志、或いは又、寺や旅行会社等の団参にしても、巡拝を実行してみなければ全く意味のない事だ。とにかく思い立ち、実行してこそ実が結ぶのである。
 よく、世の無信心なる人が、信仰を持った者をあれこれいう事がある。でも、信心することの意義は中に入っている当事者しか解らないわけで、周囲の未経験者がいくら言葉を並べて立てても、説得力をもって人を感動させることはできない。知りあった仲間と旅するのも楽しいけれど、未だ知らぬ人とお互い助け合いながらの旅もいいものだ。
 しかし、どんな仲間であろうとも自分自身をみつめる時は、やはり一人である。その中で苦しくなったり不安になったりする時に、父なる、母なる、観音さんを背に見る事になる。つまり同行二人の旅である。それは、まさに生まれた時、死する時の己れ(人間)そのものの姿を知る事にもなる。大事な時他人を意識する必要はない。
 その覚悟が生まれた時、現在の幸福の有難さ、そして命の尊さも心から知る事ができる。
 何よりも不思議に思うのは、人間はやはり、どんな人でも善人であるということ(仏心をもっているという事)。巡拝を発願すると、その道中、その人の行動はまるで人が変わった様に素直で真撃になるものである。今までは、まるで虚勢でもはって来たかの様にふてくされ、てらいのあった行動も、何のためらいもなく、まるで母の前で行動するかの様に、甘えてみたり、親切であったりする。自分にこんな素直さがあったかの様な思いで新しい自分、本来の自分を見つける事ができ、おおいにこれからの人生に役立つものである。
 出発する心が決まったら、先ず『一つの決意』をして欲しいものである。それは最愛の家族への祈り、仕事、悪癖、将来への想い、各人それぞれあろうが、巡拝する目的に対しての決意を新たにして巡拝したいものである。そうすれば、巡拝が結願した時、その重みは倍加するであろう。