西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山である。
 治暦二年の罹災後、平安朝白河天皇の勅命によりまた正和元年花園天皇より綸旨を受け、法燈は高く輝き、伽藍の規模は正に西国一という意味を込め、西國寺と名付けられ、天仁元年には、勅願寺となる。治暦炎上により本尊行基作薬師如来は焼滅したが、永保元年、讃岐善通寺の七仏薬師のご一体が紫雲に乗って来飛、金堂に安座され賜うと伝えられる。現在の本尊薬師瑠璃光如来である。
 境内の平地面積は、一五七〇〇平方メートルに及ぶ。
 観光尾道のシンボルとされる長さ約ニメートルの大草履の仁王門をくぐり、百八段の石段を登れば、緑の中に朱塗の金堂・三重塔・大師堂・不動堂・持仏堂等が並び、さらには幕末の哀歌を語る大方丈と華麗な密教伽藍を配し、眼下に横たわる尾道水道と共に、絢爛たる一大絵巻が四季折々に展開される。
 弘法大師の霊跡として、加持祈祷の道場として年中多くの善男善女を迎えている。
 西國寺は、聖武天皇の天平年中(七二九〜七四八)に名僧行基によって開基された。行基が巡国行脚の途すがら尾道に立ち寄った一夜、加茂明神の霊夢を見、この地に仏堂を興そうと志した。多くの篤信者が力を貸し、わずか三ヶ月で完成、寺の起こりとなった。
 治歴二(一〇六六)年に本堂などが炎上、行基作の本尊薬師如来も焼滅した。
 永保元(一〇八一)年、白河天皇の勅命により、京都御室仁和寺性信法親王の弟子慶鑁が再建、本尊に讃岐善通寺に七仏薬師の一体を安置した。天仁元年勅願寺となり、院政全盛期には官寺として栄えた。
 鎌倉時代には武家の圧力が加わり、正和元(一三一二)年・三年の二度花園天皇より綸旨を賜った。再び火炎があったという永和年中(一三七五〜)からの六十年間に金堂・三重塔などが武家の援助で再建され、天正十六(一五八八)年には千光寺山城主木梨広盛が護摩堂を寄進した。
 江戸時代、浅野領下では大寺としての格式を保ち続けた。
 幕末から昭和までの激動時代も変わらぬ信仰を集め、昭和四十年代には金堂、三重塔。平成になって持仏堂、本坊の大修理を行い雄大壮麗な姿をとり戻した。