般若寺は、その名が示しますように用命天皇(聖徳太子の御父君)の勅願で、若くして亡くなられた般若姫の菩提を弔うため、姫の父である豊後の国(大分県)の満野長者が聖徳太子の師、恵慈和尚という方を開山として創建した真言宗の古いお寺です。恵慈和尚より今に至るまで代を重ねること八十九代、年月を経ること実に一千四百年になります。当初は三輪宗のお寺でありましたが、第九代住職に弘法大師の弟君・真雅和尚をお迎えして真言宗に改宗されました。
大内氏、毛利氏の時代は代々にわたって崇敬、保護を受け、大内氏の時代には寺領七千石、毛利氏の時代には百町歩の寺域を賜ったといわれます。一山百二十ヶ寺の末寺があったといわれますから、この近辺では並ぶものの無い大きなお寺であったわけです。峯には金毘羅社、三鬼神堂、薬師堂、求聞持堂等々があったと伝えられておりますが、残念ながら江戸時代に大火炎にあい、殆どを焼失いたしましたが、その後再建されました。
そもそも般若姫は満野長者の一人娘で、たぐいまれな美女としてこの噂は遠い奈良の都まで伝わっていった。
あまりに美しい姫の評価を聞いて、まだ見ぬ恋に身を焦がされたのが橘豊日皇子(後の用明天皇)である。豊後の国へ下向され、満野長者の館の牛飼いに身を変えて御縁を結ばれ、二人は愛し合うようになった。都でおこった戦のためお帰りになった皇子はその後、姫を都にお召しになり、姫は恋しい皇子のもとへ百二十隻の船団を従えて旅立ったが、途中不幸にも海上風波の難に遭い、遂に周防大畠の浦で逝去された。その時、姫が西方の峰を指して「彼の峰に葬ってくれ」との御遺命があり、この地に葬ったのが般若寺建立の由来である。後に用明天皇の御陵もこの地に移され、天皇及び般若姫の御陵墓が今もなお、厳然として玉垣の内に奉祀されている。また、満野長者夫婦の墓も境内にあって往古の悲しくも哀れな物語を偲ばせてくる。境内にある聖徳太子鞭の池は、聖徳太子が全国巡幸の折、周防の地に立ち寄られ、父君、儀母君の墓参に当山に登られ、供養の為掘られた池として有名で、今も瀬戸の干満に合わせて水面が上下することは不思議とされている。